令和時代の「気合い」と「根性」論 ― 将来、リーダー・指導者を目指す方に ー - 映像制作・動画制作会社 - ARTSTECH(アーツテック)

令和時代の「気合い」と「根性」論  ― 将来、リーダー・指導者を目指す方に ー

2025.09.29 (Mon)

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現在では敬遠されがちな「気合い」と「根性」という言葉。

 

けれども、その言葉の奥には、時代を超えて変わらない大切なものがあるのではないでしょうか。

 

便利さや合理性ばかりが求められる現代の社会で、努力や挑戦の意味をどう考えるか。

自身のクリエイティブの現場での体験をまじえ、弊社代表・酒井靖之監督に綴っていただきました。

 

 

■はじめに

 

僕が映像制作会社を始めて、三十年以上が経ちます。

 

これまで数え切れないほどの若者たちと仕事をし、指導し、共に苦しみ、また共に成長してきました。

 

今の指導者が若年者に対して、一番使ってはいけない言葉は「気合い」と「根性」だと言われています。

 

例えばスポーツの世界。当然、技術が必要ですが、技術を幾ら習得したとしても、それだけでは駄目だと思うのです。

習得した技術を使いこなすためのフィジカルが無ければいけません。

しかし、そのフィジカルを身に着けることは簡単なことではありません。

 

オリンピックでメダルを取るような選手が、歯をくいしばり、時に涙を流しながら厳しいトレーニングに励んでいるところを、テレビなどで見たことがある方も多いと思います。

 

大抵の一流選手は専属のフィジカルトレーナーをつけています。

自分の意志だけで、限界を越える過酷なトレーニングが出来る人は非常に少ないからだと、ある著名なアスリートは語っていました。

 

僕たちから見れば考えられないような、長く苦しいトレーニング。

 

気合いと根性で自分に打ち勝った人が、オリンピックなどでメダルを取れるのだと思いますし、その姿は、見る人すべてを魅了します。

 

こうしたスポーツ選手には皆感動するのに、なぜ一般の人たちに気合いと根性を押し付けてはいけなくなったのでしょうか。

 

現代の子たちは弱くなった、根性論が通用しない、と言われたりします。

 

根性論が通用しなくなったから弱くなったのか、弱くなったから、根性論が通用しなくなったのか。

 

僕自身は、今の子たちが弱くなったとは思っていませんし、現代のトップアスリートが、昔の人よりも劣るとも思えません。

 

合理的、効率的ということが求められる時代ではあるけれど、しっかりとした、夢、目標、ゴールを持ち、その目標から逆算して、自分はどれだけの厳しい練習量を積まなければならないのかを考えている人は、いつの時代もいたし、今の時代も変わっていないと思います。

 

 

■根性論は絶対悪なのか

 

現代の社会的な風潮として、もっとも弱い立場にいる人や、物事をうまく進められない人の味方にならなければならない、という考え方が広がっているように思います。

 

「誰も置き去りにしない」

これ自体はとても正しく、社会の成熟を示す理念でもあるでしょう。

 

なぜなら、競争や選別の論理だけでは、どうしても力の弱い人たちが置き去りにされてしまい、その存在が見えなくなりがちだからです。

誰もが安心して学び、働き、生きていける環境を整えることは、確かに重要な課題です。

 

しかし、その一方で問題になってくるのは、向上心や野心、ポテンシャルが高い人の場合です。

 

根性論を排して、合理的なやり方や配慮ばかりを強調していくと、結果的に彼らの持つ可能性までも抑え込んでしまう危険があります。

 

せっかく能力や意欲にあふれた人材であっても、全体のペースに足並みを揃えることが重視されすぎれば、自分の力を十分に伸ばしきれないまま埋もれてしまう。

 

ここに、指導や教育の難しさが存在していると思います。

 

特に学校という場は、社会の縮図であり、また公平性が強く求められる場所です。

特定の子どもだけをひいきすることは許されず、全体の調和を保たなければならないという大前提があります。

 

そのためには、どうしても「うまく出来ない人の側」に目を向け、その人が少しでも安心して学べるように支援する必要が出てきます。

 

これは教育的な倫理として当然のことですが、同時に、全体の水準をある程度引き下げざるを得ないというジレンマを伴います。

 

■便利になった現代社会がもつ弊害

■ ネット社会の功罪

 

今の若い人たちは総じて頭が良く、善悪の基準をしっかりと持っている人が多いように思います。

 

そのため、かつてのように「とにかく頑張れ」「我慢すれば必ず報われる」といった、単純な根性論だけで押し通そうとする指導者に対しては、はっきりとNOを突きつける人が増えてきました。

 

以前であれば、理不尽な指導にも反発せず、ただ従うしかない状況が多かったのですが、いまや、それをそのまま受け入れる人は少なくなっています。

 

その背景には、世の中全体がネット社会になったことも大きく影響しています。

 

理不尽な経験や不公平な扱いを受けたとしても、いまの人々はそれを一人で抱え込む必要がありません。

SNSや掲示板、動画サイトなどを通じて、瞬時に自分の状況を共有し、共感や支持を得ることができます。

 

すると、「やっぱり自分は間違っていなかった」「あの先生や上司の言い分は理不尽だったのだ」と、多くの人が気づくことになります。

 

かつては個人の内に押し込められていた違和感や怒りが、いまやネットを通じて可視化され、集団的な力を持つようになったのです。

これは成熟した世の中の一面でもありますが、同時に、現場の指導者が何を言っても、すぐに批判や反論が返ってくるという、ある種の萎縮効果を生み出してしまいます。

 

ここで最も深刻な問題は、こうした風潮に皆が飲み込まれてしまうことによって、個人が自分の潜在的な能力をじっくりと伸ばしていくことが難しくなっている、という点です。

 

合理性や公平性を重んじるあまり、厳しい経験を通してしか得られない「突破力」や「持続力」のようなものを育む機会が減少していると思うのです。

 

たとえば、スポーツや芸術、あるいは研究の分野において、ある程度の理不尽さや過酷さに耐えることで、はじめて花開く力というものがあります。

しかし、いまの社会の風潮では、そうした「鍛錬の場」が敬遠され、可能性の芽が育つ前に摘み取られてしまうことも少なくありません。

 

結局のところ、現代は優しさと配慮が重んじられる社会になった反面、人が本来持っている潜在能力を徹底的に伸ばすことが難しい環境になっているのではないかと感じます。

 

理不尽さを共有できるネット社会は、人々に安心を与えると同時に、成長に必要な摩擦や衝突までも避けさせる方向に働いてしまう。

 

これは、現代が抱える大きな矛盾だといえるのかもしれません。

 

■ AIが持つ危うさ

 

現在、映像業界では、AIをはじめ、最新のテクノロジーを駆使して仕事をしているところがほとんどかもしれません。

 

一般の会社勤めをしている人たちが時間の短縮のために、議事録をAIでまとめたりするのはかまいませんが、僕が一番危惧しているのは、これから自分で何かを作り上げていこうとしている人たちの将来です。

 

こうした人たちがAIに頼り切ってしまい、自分で考えることをやめてしまったら、クリエイティブの世界はどうなってしまうのだろう、と。

 

現在、タクシーの運転手不足により、運転手の試験に地図の試験がなくなりました。

アプリから予約を取り、お客さんが行き先を入力すると、そこまでのルートが表示されます。

それは確かに素晴らしいテクノロジーですが、道を覚えられる運転手が激減しました。

これで、運転のプロと呼べるのだろうか。そんな運転手さんが増えているのも事実です。

 

僕は、テクノロジーが進めば進むほど、人間が根源的に持っている能力は退化していくと思っています。

 

テクノロジーに「使われる」のではなく「使いこなす」。

これが、AIに支配されない考え方だと思っています。

 

 

■ 0から1を生み出す苦しさ

 

ここで単純な根性論を振りかざすわけではないのですが、クリエイティブにおいて0から1を生み出すのは、経験した人にしか分からない、大変に苦しい作業です。

 

アマチュア時代の、自分の好きなもの作っているうちは楽しいだけかもしれないですが、それがプロになって、多額のお金を預けてもらうような仕事となると、これは長く苦しい戦いになります。

 

自分のクリエイティブを信頼して頂いて仕事を引き受けた以上、その人たちの想像を超えるものを作りあげなければならない。

この時の緊張感は経験した人にしか分からないと思います。

 

自分の例を挙げさせて頂くと、昔から今に至るまで、楽にクリエイティブが出来たことは一度もありません。

若い時分は、徹夜を幾度となく経験しました。

 

しかし、ここで勘違いしてほしくないのは、映像業界=ブラックという単純なものではないということです。

 

僕の20代の修行時代は、一般のビジネスマンの方々が仕事を終えるような時間に帰れたことはありませんでした。

朝まで掛かることもしばしば(本当はたくさんありました)。

 

でも、それは、誰かにやらされていたのではありません。

 

スキル不足が第一の理由。もうひとつは、自分の目指す基準に、自分の作り上げているものが追い付いていなかったのが原因です。

何度も何度もやり直し、気づいたらその時間になっていたのです。

 

思うに、どの仕事でも、年齢、キャリアに応じて、仕事のスピードを上げていかなければなりません。

つまりは、集中力も、テクニックも、効率性も、すべてのスキルをキャリアに応じて向上させていくことが大切です。

 

スキルさえ身につければ、残業もしなくていいし、時間に余裕が生まれる。その時間を、クリエイティブのインプットに使えば、さらにクリエイト能力は向上します。

 

そうした努力を怠っている人たちが、映像業界を離れて、映像業界=ブラックと言っているのだとしたら、それはとんでもない言いがかりです。

 

僕の若い頃の戦いを、「昭和の気合いと根性ですよね」という言葉で片付けられたくないと思っています。

 

すべては自発的にやっていました。つまり自分の仕事に対する責任感からやっていたのであって、やらされていたわけではなかった。

決して令和の人たちより、僕の方が気合いと根性に優れていたという訳ではありません。

 

■「気合い」と「根性」の本質

 

■ ゴールを提示してあげること

 

スポーツにしても、勉学にしても、子どもや生徒、あるいは若い世代が本気で成長していこうとする際には、指導者がしっかりとゴールの設定をしてあげられるかどうかが極めて重要だと思います。

 

人間というのは、ただ「がんばれ」と言われても、努力することはできません。

 

目の前に具体的な目的と到達点があり、その道筋がある程度示されて初めて、自分の力をどのように注ぎ込めばいいのかがわかるものです。

 

ゴールのイメージがなければ集中は散漫になりますし、途中で投げ出す原因にもなります。

だからこそ、指導者は学習や練習の過程を整理し、段階的な目標を提示してあげる必要があるのと思うのです。

 

ただ「成績を上げる」「大会で勝つ」といった目標だけではなく、もっと長期的な視点で「自分が将来どうありたいか」「何を人生の核に据えるのか」といった夢、ゴールを持てるように導くことも欠かせないと思います。

 

ゴールが明確になった瞬間、人は努力を苦痛ではなく、むしろ自分の未来へ投資する喜びとして受け止められるようになるからです。

 

そこに導くことができる器とスキルを指導者自身が持っているかどうかが、実は一番問われているのではないでしょうか。

 

ところが、現代の教育現場やスポーツ指導の現場では、多くの先生やコーチが「事なかれ主義」に流されてしまっているように感じられます。

無理をさせて問題が起きることを恐れたり、生徒や保護者からのクレームを避けるために、できるだけ角の立たない指導に終始したりする。

 

もちろん、優しく寄り添うことは大切です。

 

しかし、優しさの中にも、挑戦と努力に挑む機会を設定してあげなければ、子どもたちは自分の潜在能力を知ることもなく、限界を乗り越えた先にある世界も知らずに成長してしまいます。

 

ゴールを提示し、そこへ到達するための道のりで、時に厳しく背中を押すこと。

そして、挫折しそうなときには、しっかり寄り添い、手を差し伸べること。

 

その両方があってこそ、人は自分の目標を現実のものにしていけるのではないでしょうか。

 

現代の先生や指導者が、ただの事なかれ主義的な「優しさ」に終始せず、未来を見据えて目標設定を行える存在へと変革していくことが、今まさに求められているのだと思います。

 

 

■ 自身のレベルアップを怠らない

 

「気合いと根性」を肯定することはなかなか難しいことですし、若い人から見たら「ふざけるな」と言われるかもしれません。

 

しかし、スポーツ選手に「気合いと根性」が必要なように、どんな道も一流になるには、ある種の気合いと根性が必要です。

 

若いうちに、気合いと根性というものを教わらなかったために、肝心なところで挫折をして、転職を繰り返す人が増えているというのも、世の中の大きな矛盾だと思います。

 

僕のように、様々な企業に関わる仕事をしていると、どこの業界も離職率が高いことに今更ながらびっくりします。

 

たしかに、終身雇用制は終わったと僕も思います。

転職するごとにレベルアップしていくのも、現代の生き方だと思います。

しかし、自分自身のレベルアップは怠っているのに、不平不満だけで、一年も経たずに会社を変えていく人たちの未来は、誰が考えても分かると思うのです。

 

若い人には、そういう世の中の風潮に流されない生き方をしてほしいと思います。

 

 

■ 成功体験の重要性

 

僕は、人が成長するためには、小さな成功体験の積み重ねが何より大切だと常々感じています。

 

ほんの些細な成功であっても、それを自分の力で掴んだと実感できれば、次の挑戦に向かう勇気が自然と湧いてきます。

 

若年者たちに成功体験を積ませてあげることは、今の指導者や上司にとって欠かせない技術だと思っています。

 

人はそれぞれ、性格や得意分野、取り組み方のスタイルが異なります。

 

その人に適したタイミングと方法で、内側に眠る力を引き出す働きかけが重要です。

決して、早々に今の若い人たちの能力を見限ってはいけないと思います。

表面上は淡々としていたり、反応が鈍いように見えることもあるかもしれません。

しかし、それはやる気がないのではなく、まだ自分の中で努力の意味を見いだせていない段階である場合も多いと思います。

 

そうした時に大切なのは、指導者や大人が「この人ならきっとできる」と信じて接することです。

小さなゴールを設定し、指導者が伴走して、とにかく成功体験を積ませてあげる。

 

すると、やがて本人が自らの意思で努力を始める瞬間が訪れます。

誰かに強制されるのではなく、「自分でやってみたい」「ここまで到達したい」と心から思えるようになります。

 

そこに至った時、本当の意味での「気合い」と「根性」が生まれ、人は大きな力を発揮できるのではないかと思っています。

 

どんなに小さな成功体験でも、それを認め、励まし、積み重ねさせてあげる。

それが、本人にとって大きな力となり、やがて自分自身が花開く原動力になっていくのだと思います。

 

 

■ トップアスリートの指導論

 

トップアスリートとして第一線で活躍し、現在は指導者へと立場を移した人たちの著書を僕はよく手に取ります。

 

彼らの言葉には、単なるスポーツの技術論を超えた、人間そのものの可能性や夢を実現していくための普遍的なヒントが込められているからです。

 

極限のプレッシャーの中で成果を出し続けてきた人たちが、選手時代の体験や葛藤をもとに、どのようにして人を育てようとしているのか。

その記録を読むことで、自分自身の在り方を見つめ直すきっかけを数多く得られます。

 

「名選手、名監督にあらず」という言葉があるように、どれほど優れた選手だった人でも、そのまま優れた指導者になれるとは限りません。

自分の成功体験がかえって邪魔をして、他者の成長を正しく支えられない場合もあると思います。

 

悪戦苦闘をくり返しながら、名指導者へと成長していった過程こそ、リーダーを目指す人たちに、大きな啓発を与えるものと思います。

ぜひ、参考にしてみてください。

 

 

■ 令和時代を生き抜くために

 

どんな道を進むにせよ、人は誰もが最初の一歩を踏み出すときに、心のどこかで「自分なんかにできるのだろうか‥‥」と不安を抱きます。

 

新しい挑戦の前に感じる自己不信や恐れは、決して特別なことではありません。

それは人間として自然な心理であり、むしろ誰もが通る通過点だと言えます。

 

しかし、重要なのは、その不安に押しつぶされて現状維持にとどまるか、それとも小さな一歩を踏み出して未来に向かうか、どちらを選ぶかということです。

 

指導者とは、単に技術や知識を教えるだけの存在ではなく、まだ自分の可能性に気づいていない若年者の背中を押し、勇気を与える存在であり、挑戦を支える存在でもあります。

 

彼らの中には計り知れない無限の可能性が眠っており、それは適切な導きや環境があれば、必ず花開くと思っています。

 

僕が考える「令和時代の根性論」とは、単に人を苦しめたり縛ったりするものではありません。

根性とは、無理に押し付けられるものではなく、誰もが自分自身の中で育むことのできる力なのだと思います。

 

その過程で必要になるのは、まさに自分自身を信じ、粘り強く挑戦し続ける力です。

誰もがもつ「無限の可能性」を信じて、しっかりと導いていくリーダー、指導者を、今時代は求めています。

 

将来、リーダー、指導者に育って、大きく羽ばたいていく皆様へ。

大きな成長を、心から期待しています。

 

頑張ってください!

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