アーツテック創立30年を振り返って
2024.11.06 (Wed)
2024.11.06 (Wed)
弊社、株式会社アーツテックは本年で創立30周年を迎えました。
ひとえにご愛顧いただきました皆さま、いつも素晴らしい技術を提供いただくスタッフの皆さま、信念を持って挑戦を続ける弊社社員たち。
皆々様に支えられての30年です。
この場をお借りして御礼申し上げます。
30年。思えば色々ありました。
決して順風満帆というわけではありませんが、ベンチャー企業の起業10年後の存続率が約6%、20年後に至っては0.3%と言われる中で、30年もの長きに渡ってご支持頂けたことは感謝の念に堪えません。
今回は、30年の歩みを少しだけ語ってみたいと思います。
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僕がアーツテックを創業したのは1994年。
今からちょうど30年前になります。
この時代の映像業界といえば、映画、テレビ、ミュージックビデオ。
広告映像はCMしか無い時代でした。
僕は20代でアーツテックを立ち上げた時に、心に決めていたことがあります。
それは「皆が動画を使える時代を切り拓く」ということです。
当時、全国テレビCМは、制作費、放送費等を合わせて、通常、3億円かかると言われていました。
20代の僕は、その世界にどっぷり浸かっていたわけです。
フリーのCM演出家として、様々な企業のテレビCМを作り続けていました。
様々な企業といっても、そのほとんどは日本の企業の約0.2%しかないといわれる大企業です。
莫大な予算を使って、莫大な予算を回収するテレビCМ。
しかし、その考え方は、大企業でしか成立し得ない仕組みでした。
多額の予算を、数社の広告代理店で争い、勝った代理店がお抱えの制作会社に仕事を振る。
こういう流れができていたのです。
僕も随分、広告代理店や大手制作会社に頼まれて企画を提出させて頂きました。
勝つこともあれば、もちろん負けることもありました。
勝った場合は企画費、プランニング費を上乗せしたギャランティが放送後に支払われます。
20代でありながら、一本のCMのギャラ(企画演出費)は数百万円。
そのような中で、僕は約8年間の間で、約百本のテレビCМを演出しました。
ある時、僕にふつふつと疑念が湧いてきたのです。
「自分たちは大企業の味方でしかないのか」と。
日本の会社の99.8%を占める中小企業は、全国テレビCМを打つことが難しい。
それでは資本力、体力が圧倒的に勝る大企業がどこまでも有利になってしまう。
そこに僕は疑問を持ち、技術力のある中小企業や、意欲やチャレンジスピリットにあふれたベンチャー企業を支援できる方法はないか、と考え始めたのです。
ちょうどその頃に、彗星の如く現れ、瞬く間に時代を席巻したのがインターネット。
そのタイミングで自分は新しい映像制作、新しい動画のスタイルを切り拓くべく、アーツテックを立ち上げたのです。
それが1994年の話です。
僕は、テレビCMの一切の仕事をお断りして、インターネットのCMという新しい試みを始めました。
しかし、当時はまだインフラが追いついていないので、インターネットで今のような綺麗な映像を流すことができない時代でした。
僕は、様々な試行錯誤をしながら、このインターネットに活路を見出し、「皆が動画を使える時代」への挑戦を始めたのです。
当時のCMクリエイターというのは、いわゆるエースクリエイターと呼ばれて、広告業界の中でも最も花形のポジションでした。
「なぜその立場を捨てるのか」
「インターネットだか何だか知らないけど、お前は何を考えているんだ」
「どうして自分の価値をわざわざ下げるんだ」
等、さまざまな声を頂きました。
しかし僕は、社会に貢献できる新しいスタイルを作るという信念を持っていました。
勝算はもちろんありません。
ただ、若かったこともあって、信念とやる気と気合いと情熱だけは人一倍ありました。
インターネットの動画というものの、インフラがまだ十分に整っていない時、大手代理店から日本初のインターネット番組を一緒に立ち上げたいので協力してくれないか、というお話を頂きました。
そのクライアントは国税庁。
この制作において、テレビでは実現不可能な、インターネットならではの仕組みを用いることになりました。
二画面構成で、ひとつの画面はキャスター、もう一画面で説明画面のフリップが出てくるという、今では当たり前のことなのですが、当時、その仕組みを実現するには大変な困難がありました。
その仕組みを作るために、番組を作る制作側とソフトウェアを担当する人間に分かれて、様々な協議を重ねました。
そして、約半年間の準備を経て、日本初のインターネット番組が公開されたのです。
これは当時、新聞などでも話題になりました。
また同時期、大手ポータルサイトY社から動画のサイトをさらに広げていきたいという相談を受け、コンテンツ作りを始めました。
これが僕の初期のインターネット動画、いわゆるweb動画の最初の挑戦でした。
僕はさらに、企業の課題を動画で叶えるという「ソリューション型の動画制作」というものを考え始めました。
BtoB企業でも動画を使えるようにする為にはどうすればいいのか。
営業時にPCで1分や2分の動画を見てから商談を始める「営業ツール動画」。
また社員のモチベーションを喚起させるための「社内報動画」。
消費者に見てもらうための「WebCM」。
展示会で人を呼び込むための「展示映像」など、様々なスタイルを作り上げました。
そのようにして、企業の課題解決、ソリューション型の映像を日本全国に提案をはじめたのです。
おそらく自分の記憶では、その当時、クライアントに直接ソリューション型の映像提案をしている会社は無かったと思います。
その当時、提案先の企業の方によく言われました。
「動画を作って何するの?」
「動画を作って何になるの?」と。
「御社にとって、今の課題を解決するキラーアイテムがこの動画なんです」と、熱を持って説明させていただいたものです。
ご理解いただける企業もあれば「他がやり始めたらウチもやるよ」という言葉も散々いただきました。
これはパイオニア、そしてトップランナーが必ず通る厳しい道だと思います。
それでも、変わらぬ信念を持ち続けて、自らWeb動画というものを用い、自分たちの宣伝を行っていきました。
これが30年にわたるアーツテックの初期のスタイルです。
当時、大変だったことは、編集のソフトとハードが大変高額だったことです。
ビデオカメラも数百万という代物。
おかげで設備投資には大変お金が掛かったものです。
後に、ファイナルカットプロやプレミア、ダヴィンチ・リゾルブ等が登場し、今でこそ、サブスクなどで気軽に編集ができる時代になりましたが、こうしたソフトが出る前は、ハードとセットで安くて500万円くらい掛かる、そんな時代でした。
(どうしてそんなにお金があったのか、正直、記憶にありません。たぶん頑張っていたからだと思います‥‥)
成功できるプランがあったわけではありませんが、僕たちには、時代を変えることをやる、必ず成し遂げる、という情熱が燃えたぎっていましたし、必ずやれる、という思いは強かったように記憶しています。
面白いもので、そういうことを始めると、それを模倣する同業の会社が出てきました。
ただし、僕たちにはトップランナーであるという自負がありました。
そういう挑戦の中で、一つひとつ信頼を勝ち取って、クライアント様、取引先様を増やしていったのです。
話は飛びますが、YouTubeが2000年代に台頭してきた頃は、現在のように世界を席巻する巨大サーバー、巨大企業になるとは誰も予想していませんでした。
今では考えられないことですが、YouTubeに自社の動画を置くこと自体に、モラルを問われていた時代があったのです(いかがわしい動画もあるサーバーの中に置いていいのか、ということです)。
その頃、やっと僕たちに時代が追いついてきた、と感じました。
それまでは、動画を作っても、その動画を置くサーバーに莫大な予算が掛かるために、動画の運用を敬遠していた企業も数限りなくあったのです。
しかし、無料で動画をアップできるところがあれば、動画制作の可能性はどんどん広がる、と僕はその時に目論んだのです。
その目論見は果たして当たっていました。
「YouTubeに自社の動画を置いていいのか」という懸念は三年目くらいからは消え去り、当たり前のように、あらゆる企業が動画をYouTubeに置くようになりました。
そこから動画乱立の時代が始まったのです。
どこもかしこも、動画、動画、動画‥‥。
ここから雨後の筍のように、動画制作会社が生まれてきました。
2000年前後生まれの人たちは小さい時からYouTubeを見慣れている、圧倒的な動画世代。
この世代に向けた動画広告は、どんどん当たり前になってきました。
その頃、僕たちが作ったHow Twoメイクチャンネルは、一年間に3億PVを記録し、自分でも驚くくらいの巨大な動画キュレーションサイトになりました。
しかし、良いことばかりではありません。
動画乱立時代が到来し、どこもかしこも動画を作るので、良いものが届きづらくなったのです。
今度はあらゆる仕組みを使って動画を届けようとする、僕たちにはよく分からないビジネスもどんどん出てきました。
これが現在に至る動画制作の流れです。
僕たちアーツテックは、動画の時代を切り拓いてきたパイオニアであるし、ソリューション型動画制作のトップランナーであるという自負は変わっていません。
僕たちにお願いしてくれる企業さまの為に、圧倒的に売れる、目立つ、広がる動画を作ろうという信念をもち続けています。
これからもチャレンジスピリットの灯を消すことなく、圧倒的な成果を出す動画を提供していくために努力を続けてまいります。
<筆者 酒井靖之>