若手クリエイター必読! 「センス」と「気配り力」が、映像クリエイターの決め手
2025.10.30 (Thu)
2025.10.30 (Thu)

はじめまして。ライターのSです。
先日、株式会社アーツテックを訪れた際、日頃からお世話になっている代表の酒井靖之監督に様々なお話を伺う機会がありました。
センスの磨き方のことから、気配りについて、デビュー時のこと等々。
せっかくですので、皆様にシェアさせていただきます!
映像の世界に限らず、様々なヒントを得られると思います。
ぜひご一読ください。
――自分のセンスの無さにうんざりすることが多いのですが、センスというのは生まれつきのものだと思いますか?
先天的に良いセンスを持っている人は確かにいますが、センスは後天的に磨いていけますよ。
僕がこの世界で生きていこうと思った時に気を付けていたのは、まずはファッションセンス。
もともとファッションは好きだったのですが、仕事上(CMデビュー時は、アパレル関係の仕事がほとんどだった)、服飾関係の人や、スタイリストさんと同じ目線で見ることができるように、と徹底的に学びました。
ファッション雑誌を読むことはもちろん、洋服屋へも何度も足を運びました。
様々なブランドの歴史やディテールを学ぶことによって、様々なことがわかるようになりましたね。
音楽もそう。
もともと音楽は好きだったのですが、ただ好きなアーティストの曲を聞いていただけでした。
この世界に入って、好きな音楽だけでは作品は成立しないんだ、ということを知り、クラシック、ジャズ、ポップス、ロック、ヒップホップに至るまで、あらゆる音楽を聴くようにつとめてきました。
師匠に「一流の作品に触れなさい」と指導されたことがあります。
例えば多くのジャズファンに、「ジャズといえば誰?」と問えば、マイルス・デイビスやハービー・ハンコック、ジョン・コルトレーンといった、誰からも名前が挙がるような人がいると思います。
美術だったら、ピカソやゴッホ、マレー、モネ、ルノワール等々。
小説なら、トルストイ、ユゴー、ジッド、夏目漱石、川端康成等々。
そこで名前が挙がった人たちの10人くらいから、その人たちのエッセンスを盗み取ろうとしました。
休日は、美術館に足を運び、音楽を聴き、読書に耽る日々。
食事も、なけなしの金をはたいて、一流店に訪れました。
こういうことを繰り返していくうちに審美眼というものが身についてきたと思います。
わかりやすく言えば、一流と二流の差がわかってきたんです。
それがセンスを磨くことにつながっていきます。
あとは、自分の好きなものは好きなものとして大事にしながら、様々な角度から良いものに触れるうちに、センスは育っていくんじゃないかなと思います。
――監督がセンスを磨くために投資した額は凄かったでしょうね
そうですね。尋常じゃない額を投資してきました。高級車を何台も買える額です。
どれだけ、自分に投資できるかが、将来を決めると言っても、過言じゃないかもしれないですね。
若い頃、一か月で10万円にも満たないギャランティの中から、5千円の写真集を買った時の重みは忘れられません。
5日間くらいをカップラーメンだけで過ごしてでも、高価な本を買ったことが、今の自分のセンスにつながっているのかなと思いますね。
自分に投資したものは、投資した何倍もの財産となって、しっかり戻ってくると断言したいですね。
――その頃にはもう監督を目指していたのですか?
将来、監督になるという大それたことは考えてなかったです。
自分はこの世界でやっていけるのだろうか、という不安でいっぱいだったのが、1年目、2年目の偽らざる心境でした。
田舎から出てきた一青年が、プロ中のプロに囲まれて仕事をさせてもらっていました。
大作映画の現場は皆、尋常じゃないプロ意識。
監督をはじめ、出演者もスタッフも命がけ。
美術さんには、「こんな美術を限られた時間でどうやって作ったんだ!」という驚きしかなかったですし、現場でのカメラマンや録音さんのプロフェッショナルな動き、照明さんの芸術的なライティングには本当に感動しました。
一人としてアマチュア的な人がいない中で、とにかく、皆と足並みを合わせなければならない、呼吸を合わせなければいけない、ということに必死でした。
――センスを鍛えることは、筋肉を鍛えるようなものだ、ということを聞いたことがあるんですけど、どう思われますか?
そうですね。筋トレとセンスを鍛えることは一緒だと思います。
筋肉を鍛えるには、現在の自分の体の状態をチェックして、地道なトレーニングをしなければいけません。
センスもただ、ぼーっとしているだけでは、アンテナが錆びてしまいます。
常日頃からアンテナをしっかり磨いて、より良いものに触れていかなければなりません。
そして、センスがいくら良くても、「あの人のセンスはちょっと古いよね」と言われたら、この世界ではもう終わりなんです。
だから、好き嫌いは別として、常に新しい流行は把握していないとダメですね。
僕は私生活では流行を追うことは大嫌いなんですけど、流行のファッションを見たり、音楽を聞いたりして、「なるほど、今はこういうテンポでこういう展開が好まれているんだな」とプロの目線で解析したりしています。
――なんだか、映画や音楽も単純には楽しめなさそうですね‥‥。
これは僕らの職業病みたいなものです。
サッカーの中田英寿さんが、引退時に「純粋にサッカーボールを追い続けていた日々は、自分にはもうない」とおっしゃっていたけれど、これはプロとしての宿命だと思います。
これはどの世界も一緒でしょうね。
――酒井監督は気配りの塊みたいな人ですよね。僕みたいなものでも、会社にお伺いしたら、お茶とお菓子で出迎えていただいて、毎回、感謝の極みなのですが、そういったことはどこで学ばれたのですか?
それはこの世界に入って、助監督という仕事をやっていた時に、誰に教えてもらうこともなしに、「助手の仕事って気配りなんだ!」ということに気づいたんです。
自分には何の力もないから、メインでやっている人にいかに気持ち良く仕事をしてもらえるか、ということに気を付けるようになったのが最初です。
まずは、相手の目を見て、気持ちの良い声で「おはようございます!」ということ。
少しでも汗をかいている人がいたら、すぐに飲み物を出せるようにすること。
時間が押していて、なかなか食事ができない時には、「つなぎ」と呼ばれる間食を分かりやすい場所に用意しておくこと。
弁当は、皆が喜んでもらえるものを用意すること。
とにかく人一倍、気を使いました。
すると、監督やスタッフに「お前は気が利くな」と言われるようになりました。
それが、僕が早くデビューできた大きな要因だと思います。
本当にそうなんです!
「あいつは気が利くから、あのロケにはあいつを連れて行こう」ということになったり、大きな現場の助手に抜擢されるようになっていきました。
気配りがどれだけ大切かということを、ぜひ若い人にも知ってもらいたいと思います。
自分が監督になっても、細部まで見通す気配りを常日頃学んでいたおかげで、スタッフや出演者心の機微を見通せるようになりました。
シナリオにしても、小説(今は小説も書いてます)にしても、人間の機微を描くものです。
すなわち、演出とは、「機微」を描くことだと想っています。
そういう意味では、いろんな意味で気配りを徹底したことが、自分の人生に大きく役に立っていると思います。
まあ、気配りの癖は一生抜けないでしょうね。
――酒井監督はこちらが帰る際も玄関まで送って頂いたりと、その気配りに毎回、感銘を受けているのですが、豚汁のエピソードも大好きです。
あるドラマの現場のことでした。山中の、冬の寒い朝です。
皆より二時間早く起きて、前日に買いだした材料で、出演者とスタッフに豚汁をふるまったことがありました。
その時に、カメラマンさんから、「お前、将来すごい監督になるぞ」と言われたことを今でも覚えています。
決して人気取りでやったのではなくて、「今の自分には力がないけれど、この作品に少しでも貢献したい」という気持ちが強かったんでしょうね。
――アーツテックを道場に例えていた人がいたのですが、センスから気配りまで徹底的に鍛えられるんですね。
気配りのできない人はリーダーになれないと思っています。
「行動は大胆に。神経は繊細に」という言葉がありますが、人情の機微も分からない、気配りもできない人は、残念ながら真のリーダーにはなれません。
ただ「俺はこうしたいから、とにかく言う通りにして」では、誰も従いません。
普段から、気配りできる人は、リーダーとしても皆に慕われるし、名将と言われる人にはそういう人が多かったんじゃないかと思います。
どの業界でもトップに立つ人はそういう人じゃないかな。
――酒井監督のデビュー時のことを教えて頂けますか?
助監督をやっていた時、今のままでは監督の道へは遠いな、と思ったんです。
僕が23、4才の頃にデジタル革命というのが起きて、CGを使った合成技術がもてはやされました。
デジタルについて、ある程度の知識がないと、どうやって撮影すればいいかも分かりません。
そこで編集術を学ばなければということで、CGや実写の合成を取り扱っているポストプロダクションの会社に修行に行きました。
その編集スタジオはモニターが20台ほどずらりと並んでいて、見たこともない装置が埋め込まれている、4メートルくらいはあろうかという編集卓。
まるで宇宙船のコクピットのような編集室でした。
ハリウッドが使用している、当時の最新鋭の機材が、そこには並んでいました。
そこで一年半くらいはアシスタントとして、チーフから指示された仕事をやっていました。
――だいぶ過酷な日々を送っていたようですね?
当時は働き方改革なんてありませんから、一週間に何日家に帰れるかも分からないような仕事が続きました。
寝れないということでは、業界内でもかなり過酷なポジションだったと言っていいと思います。
朝10時から翌朝10時まである制作会社の仕事をして、一時間の休憩の後、また別の仕事。
一番つらかったのは、意気揚々と制作陣やスタッフに入ってこられることです。
こちらは徹夜明けです。そこから、さらに20時間の仕事。
編集室というのはディレクターさんやスポンサーさんがずらりと並ぶ中で作業するので、気軽にトイレにも行けません。
そういう状況の中で、一年半ほど勤めた時、上の人から「お前、メインでやってみろ」と、ある番組の編集を任されました。
それがぼくのデビュー戦でした。
後ろにお客さんがいて、横にはディレクター。
緊張で頭が真っ白になり、普通なら5、6時間で終わる作業に15時間も掛かってしまいました。
スタジオの営業の方が、後日菓子折りを持って、制作会社に謝りに行ったそうです。
これが僕の散々なデビュー戦でした。
デビューできた喜びなんてありません。ひたすら落ち込みました。
ディレクターとしてのデビュー作はある深夜番組の仕事でした。
撮影の時に、自分の欲しい画をスタッフにどう伝えたらいいか分からず、だいぶ撮影に時間がかかってしまいました。
ナレーションの指示を出すためのキューボタンを押す手が、汗でびっしょりになったことを思い出します。
作品としては評価されたのですが、何にしても初めてのことは緊張します。
ディレクターの席というのは、僕ら助監督経験者からすると聖域です。
選ばれし者のみに用意される椅子に座ったときは、喜びよりも、やらなければならないことへの緊張で、とても感慨にふけったりする余裕はありませんでした。
当時、映像業界というのは狭い業界だったので、大きな失敗をすると悪い噂が広まって、仕事もなくなります。
そういった不安の連続の日々で、仕事を終えると安堵感しかありませんでした。
――そこから数十年仕事が途切れず続いているんですから、凄いことですね。
ありがたいことです。
「自分には経験があるからきっと大丈夫だ」という気持ちを、時を経て持てるようになりましたが、最初の5年くらいは、その頃何をしていたのか思い出せないくらい、大変な毎日でした。
制作予算として、何十万から何千万円もの仕事がありますが、「酒井監督にお願いします」と言われたら、それなりのクオリティを求められますから、今でも緊張しないなんてことはありません。
なんとかその責任を果たすために、今まで磨いてきたセンスやノウハウを駆使して、最後は自分を信じて、弱い自分と闘いながら作品を作っています。
とにかく責任を果たさなければならない、という気持ちでやってきましたね。
それは、これからも変わらないんじゃないかな。
と、せっかくの酒井監督のお話もここでタイムアウト。
酒井監督の誠実さと情熱を少しでも感じて頂けたら幸いです。
そして、その後、私たち二人は新宿の夜へと消えていったのでした‥‥。
(筆者 ライターS)